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温暖化削減目標かけ離れ 意見の相違G8首脳 (07月06日)(日)

 曇り20−29度C 晴れのち曇り 陽ざしが強い 13時 江戸川区短歌連盟 短歌歌会(区総合文化センター3階研修室)
 13時 立正佼成会江戸川教会盂蘭盆会(区総合文化センター大ホール)
 16時 案件があって村上氏 小宮氏と要談(葛飾区内)
 夜は国本伊代「メキシコ革命」を読む。
 

●東京新聞の記事から・・・
 日中戦争開始前年から昭和天皇(一九〇一−八九年)の海軍侍従武官を務めた故山澄貞次郎(やまずみていじろう)氏(七六年に七十九歳で死去)の手記を遺族が見つけた。
 昭和天皇の知られざる人柄や質素な生活ぶりが、側近の目を通して描かれた貴重な資料として注目される。
 
 手記は「随筆 宮殿炎上」。山澄氏は三六(昭和十一)年五月−四〇年十一月の四年半、軍部との連絡役を担う海軍侍従武官(計三人)の一人として昭和天皇に仕えた当時の様子などを、終戦後の四八年につづった。
 まず昭和天皇の「人間宣言」について
 「事実は決してそんな変化があった訳ではなく」
 「以前から決して御自身を神と思召していらっしゃりもしない」と説明。
 四六年から始めた全国巡幸を
 「機会があったら今度の戦争について国民にわびたい、日本再建の努力に力づけをしたいと思召していらっしゃったのが御主旨(しゅし)」と記す。
 
 生活ぶりは「何事にも堅実簡素を尊ばれる」とし、好況の当時でさえ食事は「白米は召し上がらず、七分づきのご飯に一汁二菜、お香物位で、皆が想像するように、山海の珍味を並べる王者のお食事とは全く違う。私は金持ち連中は少しは自重しろと憤慨した」。
 
 下着も「すっかり切れるまで洗濯して召される」。ぜいたく品は使わず、品質が悪くても国産品や代用品を利用、腕時計は国産のニッケル物。
 写真を見る際は「包装やアルバムの体裁などは何でも良く、仰々しいのを殊にお嫌いになった」と明かす。
 軍服姿の真夏の執務でも扇風機を使わず、冬の葉山御用邸の滞在は「御避寒」とされていたが「実際は筑波おろしの寒風を突いて連日荒けた海上にお出ましになる御鍛練であって(生物研究の)御趣味でなければ決してできない」と振り返る。
 
 太平洋戦争に向けて軍靴の音が高まる中、海軍侍従武官として四年半にわたり、昭和天皇に仕えた山澄(やまずみ)貞次郎(ていじろう)氏。
 終戦から二年半余たった手記では、天皇の日常生活に関する間違った伝聞や憶測を憂い、その素顔を書き残して興味深い。主なものを紹介したい。(生活部・杉戸祐子、特報部・野呂法夫)=原文は《》。一部省略、現代仮名遣いに
 
 《まことに惜しくてたまらない》−。手記は山澄氏が終戦後の一九四六(昭和二十一)年、出征先の南太平洋・ブーゲンビル島から帰還する途中、前年五月の空襲で皇室の中心的施設「明治宮殿」(豊明殿など)が全焼したことを知った無念さから始まっている。
 山澄氏は祖父、父も海軍の重鎮という「海軍一家」に生まれた。
 戦艦「陸奥(むつ)」の艦長も務め、終戦時は少将。退官後は神奈川県逗子市に住んだ。
 手記は長男の故暉(あきら)さん(二〇〇四年死去)の妻庸子さん(80)=同市=が遺品から見つけた。
 「復員省」と印刷されたB5の縦書き用紙六十一枚に、「心を清める」「陛下の御食事」など十九項目にわたる。
 
 【御所言葉】
 《陛下がおやすみになることを「御格子(みこうし)」、魚を「お万那(まな)」》。山澄氏は御所で使われていた言葉を記録した。
 そばは「そもじ」、酒は「おすず」、汁粉は「おすすり」。昭和天皇は自身を「朕(ちん)」ではなく「わたし」、皇后(香淳皇后)を「ながみや(良宮)」。
 娘の内親王らは両陛下を「おもうさま」「おたあさま」、側近は天皇を「お上」と呼んだ。
 
 お印は昭和天皇が「若竹」、香淳皇后は「桃」。《皇后陛下は桃にちなんだ玩具をお集めになってすでに数百個》《ご印章の因縁であろうか、お上の御性質が竹のように素直で清廉で、皇后さまが桃のように豊かでふっくらしていらっしゃる》
 正月に自分の干支(えと)の日があれば飴(あめ)を出す習慣があった。侍従らの詰め所では盆に山盛りの飴が三つも四つも出て、一同なめながら祝い話をした。
 
 【映画】
 昭和天皇は新聞は切り抜きを読むとされたが、《東京の主要六種類と大阪二種類を、約二十分間フォルマリン消毒をしてそのまま差し上げた》。
 映画はお好きで、ベルリン五輪の「民族の祭典」や音楽映画「未完成交響楽」、ディアナ・ダービン主演の「オーケストラの少女」、ハンセン病をテーマにした「小島の春」など当時の主なものはほとんど鑑賞された。
 
 長女の村木淳さん(81)=同市=によると、山澄氏は退官後も葉山御用邸(同県葉山町)に滞在された天皇の将棋やコントラクトブリッジ(カードゲーム)の相手をした。
 天皇は日中戦争以来、皇居内でのゴルフは中止したが、遊びの腕前をこう明かす。
 《ゴルフのハンディが二十二、球突きが二十五位(ぐらい)、将棋が素人仲間の上の下(六級)》
 
 【御謹厳の片鱗(へんりん)】
 昭和天皇の執務ぶりは《万事几帳面(きちょうめん)》。普段は背広姿だが、陸海軍大臣から報告を受ける際にはその軍服に着替え、《一日に三度も四度もお召替えになることは珍しくない》。
 夏に廊下のガラス戸も少ししか開けず《大切な国務関係の書類を飛ばしたり無くしたりするのをお気使(づか)った》。
 
 村木さんによると、山澄氏は生前「政務室は密室で暑く、自分たちは汗だくだったが、その中でお上はきちんとしておられた」と話していた。
 一方で宮内省の役人への苦言も吐露する。《地位環境を利用して不当の権力をふるい、威張り散らした者もいた。その言動が陛下のご意志そのものであるように誤られていたのは遺憾》
 
 【花梨(かりん)】
 両陛下の御殿の庭に大きな花梨があった。山澄氏は三七年暮れ、《三つも頂戴(ちょうだい)すれば一つぐらいは芽が出るでございましょう》と、実を頂いた。
 花梨は桃と違い、小さな実がたくさん入っていることを知らなかった。
 《この無知が当分、両陛下のお笑いの種になり、赤面の至りであった》
 花梨は自宅の庭で増え、苗木数本を皇后陛下に献上した後日談も。
 《御殿の花梨は戦災で焼けてしまい、献上した第二世の花梨が、今は吹上御苑にすくすくと大きく育っているとのことだ》
 
 吹上御苑には毎年夏、滋賀県からゲンジボタルが献上された。
 生物学者の天皇は単なる慰めではなく、何とか繁殖させようと苦心され、流水に放って研究もされた。
 ヒドロゾアなどの採集は面目躍如だ。海軍侍従武官が船長になり、一五トンの葉山丸で葉山沖に出て三〇〇メートル以上の海底で網を引いた。
 《海上が荒れても陛下は少しも構わず、船に弱い侍従はすぐ酔ってしまうが陛下はまことにお強く、酔ったご経験がお有りにならない。薬は侍従がお世話になるのが落ちであった》
 
 【皇太子殿下の玩具】
 皇太子さま(現天皇陛下)の思い出もある。学習院初等科入学前に東宮仮御所で独立した生活を送るため、両陛下の元を離れるお別れの内宴が三七年三月の夕に開かれ、皇太子さまから御所で遊んだ玩具が側近に贈られた。
 《「山澄、山澄、アア山荒らし」と仰せられた。私が海軍の侍従武官だからとて「ノラクロ」が乗っている船の玩具など、小さい物八個を賜ったが、身体の大きな小出侍従には、最も似合った犬の玩具を賜って大笑いをなさった可愛(かわい)らしい御姿を今でもはっきり覚えている》
 《これらの玩具を見ると、私たち一般の生活と大差ない御生活様式であるのが分かる》
 
 【酒と煙草(たばこ)】
 昭和天皇は飲酒も喫煙もされなかったが、出征者の慰問に心を砕く。
 侍従武官が戦地入りする御差遣(ごさけん)で重要な役目が特注の酒などの下賜だった。
 二九年、若槻礼次郎元首相が御陪食の際、「良いお酒でございます」と申し上げたところ、天皇は「今日は特に理研酒(合成酒)を用意したのだが」と大笑いされたという逸話を引いて記す。
 《御慰問の酒と違い、御陪食の際、外国人など特別の場合を除いて、理研酒のようなものをお用いになるのは有りがちのこと》
 
 【お田植え】
 宮中の儀式で大切なのが、両陛下が皇居内で行う養蚕や米作り。
 《御自ら農家の苦心と努力とを御体験なさっていらっしゃることと、その意義を国民は知るべきだ》と訴えて締めくくる。
 
 やまずみ・ていじろう氏
  1896(明治29)年、東京生まれ。高級士官教育機関・海軍大学校卒。
 軽巡洋艦「長良」副長などを経て、1936(昭和11)年5月から40年11月まで、海軍侍従武官として昭和天皇に仕える。
 退任後、重巡洋艦「妙高」や戦艦「陸奥」などの艦長や、43年3月から第八艦隊参謀長を務め、南太平洋・ブーゲンビル島で終戦を迎える。
 終戦時は海軍少将。戦後は横須賀地方復員局長などを務めた。妻・音羽さん(故人)との間に二男二女。76年、79歳で死去した。
 

●産婦人科医が足りず、半年先まで分娩の予約が取れない。そんな深刻な事態が全国で増えている。
 今や、妊娠したと分かった瞬間から、妊婦は産み場所を求めて奔走せざるをえないのである。
 
 妊娠わかった時点で予約を取ることが絶対に必要である。
 「09年1月まで、分娩予約を受け付けることができません」 そう話すのは、東京都内の産婦人科病院だ。ここでは、2人部屋と個室があるが、2人部屋は人気があり、すぐに埋まってしまう。割高な個室も少し空きがある程度だ。
 また、都内の別の病院の場合は、ホームページに「09年1月前半まで予約を制限している」と書かれている。
 ここに問い合わせると、担当者は1月後半から予約可能と回答した。今後さらに制限が進むことも考えられるという。
 
 1か月の分娩数を制限している病院もある。独立行政法人国立病院機構横浜医療センター(神奈川県横浜市)では、1か月の分娩数を70件にしている。
 産婦人科医が7〜8人勤務している比較的大きな病院だが、担当者は「先週で1月までの予約がいっぱいになりました。埋まるのが早かったです」と話す。
 横浜市西部地区、藤沢、鎌倉地域の中核病院である同センターには、地域の産婦人科で予約が取れなかった妊婦が殺到している様子だ。
 
 分娩予定日は通常、妊娠9〜10か月目とされる。7か月先まで空きがないということは、妊娠2か月目までに受診しなければ間に合わない計算だ。
 ところがこの時期は自覚症状が少ないという。つまり、受診が遅れると予約が取れない、なんてことにもなりかねない。
 「小さな病院は医師の数も、ベッド数も少ない。そのためすぐに予約でいっぱいとなってしまう。
 また、分娩できる施設の数自体も減っていて、妊婦さんは手当たり次第病院に問い合わせている」
 
 妊娠がわかった時点で診察を受けて、早めに分娩予約を取ることが絶対に必要だ。
 各病院の担当者はこう口を揃える。最近の妊婦はまず、産む場所の心配をしなければならない。
 一方、東京都の医療機関案内サービス「ひまわり」では地域別に助産所の検索ができるが、予約の空き状況まではわからない。
 各病院にデータを随時更新してもらわなければならないため、予約状況がわかるサービスの実現は難しい、と東京都福祉保険局は話している。
 
 患者との訴訟やトラブルに嫌気がさす? 厚生労働省が08年3月25日に発表した産科医療機関調査によると、1月以降に分娩を休止・制限した医療機関は77か所にも上る。
 施設だけでなく、産婦人科医の数も減っているのも響いている。
 
 06年12月31日時点での産婦人科医数は1万9184人。調査は2年おきに実施していて、02年2万1236人、04年2万326人と年々減っている。
 背景には、医師の高齢化が指摘されている。確かに年齢別の分布を見ても40歳以上が多く、中には70歳代の医師も勤務している。
 病院よりも診療所の方が年齢は高く、平均年齢は60.7歳だ。
 
 高齢化に加え、産婦人科医を目指す若者自体が減っている。厚生労働省医政局の担当者は、
 「産婦人科では他の科に比べて治療をめぐる紛争が多く起こっている。トラブルに巻き込まれたくないと考えるのではないか」と指摘する。
 もっとも多いのは、障害のある子供が生まれた場合に、家族が医師側にミスがあったと訴える、というものだ。
 また、母親が死亡するケースもある。福島県立大野病院で04年12月に帝王切開中に妊婦が死亡し、06年2月に担当医が逮捕勾留された。
 この事件は、産婦人科医に大きな衝撃を与えた。「医療関係者の間ではどうしようもなかったという見方が一般的だ。これをきっかけに、やっていられないと思った産婦人科医も多い」
 
 厚生労働省ではこうした状況を解決しないと、産婦人科医離れが加速すると見ていて、「医療リスク」に対する支援として、産科補償制度の早期実現や診療行為による死因究明制度の構築といった施策を08年度中に整備していく。
 また産婦人科医は女性の割合が高い。出産や育児による離職を防止するため、院内保育所の整備といった女性の働きやすい職場環境を整えるほか、パートタイム勤務が可能な医療機関を紹介する機関「女性医師バンク」の体制を充実させることにしているという。

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