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奇跡的逆転当選の貴乃花 角界改革出来るや否や (02月01日)(月)

 暗い曇り空で多分雪模様になるという天気予報だが、そうにも見えない、と思ったら夕方から雪になった。1−10度C
 8時30分 トーヨーで打ち合わせ 8時50分 区へ 10時30分 土木部保全課高井課長の工事監査の説明 11時30分 中座 12時 博二の告別式(区内) 瑞江火葬所  18時 西野博氏のお祝いの会(TH) 20時に中座して20時15分 案件があって星氏 大見氏と要談(区内) 夜はメジョア・コクレーン「トルコ近代史」を読む。
 

●日本相撲協会の役員改選が1日、東京・両国国技館で行われ、定員10人(外部理事を除く)に対して11人が立候補した理事選挙で、二所ノ関一門を自ら離脱して初出馬した元横綱の貴乃花親方(37)=本名花田光司=が苦戦の予想を覆し、10票を獲得して当選した。
 引き続き行われた理事会で、現職の武蔵川理事長(61)=本名石山五郎、元横綱三重ノ海=の再任が満場一致で決まった。
 
 理事が立候補制となった1968年以降で、5番目に若い理事となった貴乃花親方は「9人の親方に応援していただいて、重圧を感じている。身の引き締まる思いです。武蔵川理事長のもと、与えられた職務を全うしたい」と、緊張した面持ちで意気込みを語った。
 
 4期8年ぶりに投票に持ち込まれた理事選は親方、立行司ら111人の評議員が単記無記名で投票。
 3人が11票、7人が10票を獲得して当選し、大島親方(元大関旭国)が8票で落選した。
 北の湖親方(元横綱)や九重親方(元横綱千代の富士)ら7人が再選され、新理事は貴乃花親方と陸奥親方(元大関霧島)、鏡山親方(元関脇多賀竜)の3人。
 定員3人で無投票だった副理事は、中村親方(元関脇富士桜)が新たに就任した。
 
 理事は五つある各一門内で候補者を調整するのが慣例。角界改革を目指し、一門を離れてまで立候補するという異例の行動に出た貴乃花親方は、支持を表明していた6人の親方以外からも票を集めて当選した。
 外部理事2人を加えて開かれた新理事会では、横綱朝青龍関が1月の初場所中に起こしたとされる暴行問題に関する調査委員会の発足が決定。
 友綱理事(元関脇魁輝)が委員長に任命された。
 4日に新たな役職の任命式が行われ、新体制が船出する。
 
 ▼鏡山新理事(元関脇多賀竜)の話 自分の名前の上に当選の文字が書かれた瞬間、肩に重圧がかかった。選ばれたからには、少しでも力になって協会を盛り上げたい。
 
 ▼陸奥新理事(元大関霧島)の話 理事に選ばれたことを、大変重く感じている。理事長の下で協会のために一生懸命に頑張っていきたい。
 
 ◆鏡山 昇司(かがみやま・しょうじ=本名黒谷昇、元関脇多賀竜)74年春場所初土俵。蔵前国技館最後の場所となった84年秋場所に西前頭12枚目で幕内優勝。
 91年夏場所中に引退し、年寄「勝ノ浦」襲名。96年12月に年寄「鏡山」を襲名して部屋継承。51歳。茨城県出身。
 
 ◆陸奥 一博(みちのく・かずひろ=本名吉永一美、元大関霧島)75年春場所初土俵。90年春場所後に大関昇進。優勝1回。
 大関から転落後も相撲を取り続け、96年春場所を最後に現役引退し、年寄「錣山」を襲名。
 97年12月に「陸奥」を襲名して部屋を継承。50歳。鹿児島県出身。
 
 ◆貴乃花 光司(たかのはな・こうじ=本名花田光司、元横綱貴乃花)88年春場所初土俵。92年初場所で史上最年少の19歳5カ月で幕内優勝。
 兄の若乃花と兄弟横綱となって空前のブームを起こし、史上5位の優勝22回。03年初場所中に引退して一代年寄「貴乃花」を襲名。04年2月に二子山部屋を継承し、部屋名を変更。37歳。東京都出身。
 

●東京新聞の記事から・・・
 日中両国の有識者による初の歴史共同研究の成果をまとめた報告書が三十一日、公表された。
 焦点の南京事件(一九三七年)については、日本側も「日本軍による虐殺事件」と認定したが、犠牲者数をめぐっては、日本側が「二十万人を上限に四万人、二万人などの推計がある」と指摘したのに対し、中国側は「三十万人以上」と主張した。
 近現代史を中心に両国の歴史認識の違いがあらためて浮き彫りになった。 
 
 報告書は「古代・中近世史」と「近現代史」の二部構成で計約五百五十ページ。
 両国の担当者がそれぞれの立場から共通の時代、テーマについて執筆した論文を併記した。近現代史のうち、天安門事件(八九年)などが含まれる「戦後史」については、国内世論への影響を懸念する中国側の要請で報告書に盛り込まれなかった。
 
 報告書では、特に近現代史で対立点が目立った。日中戦争全体での中国人死傷者数に関しては、日本側は全体像を示さなかったが、中国側は「不完全な統計」としながらも「約三千五百万人」と言及した。
 従軍慰安婦問題と、細菌研究の特殊部隊「七三一部隊」については、日本側が詳しい説明を避ける一方、中国側は「日本軍は慰安所を設け、強制的に多くの女性を性奴隷とした」「人体実験、生体解剖を実施」などと踏み込んだ。
 
 日中戦争の解釈については、日本側が「戦場となった中国に深い傷跡を残した。原因の大半は日本側がつくり出した」と加害責任を明確にした。一方、中国側は「日本軍国主義による全面的な侵略戦争」と断定した。
 
◆発表自体が成果
 歴史共同研究委員会の日本側座長・北岡伸一東大教授の話 日中に歴史認識で大きな差があるのは周知の事実だが、両国の研究者が一緒の場に集まって議論し、それぞれの見解を互いに示し合い、発表にこぎつけることができたのは成果だ。
 
 落ち着いた議論ができたが、中国側の議論に納得できないことも多かった。中国側の強い要請により、近現代史のうち戦後史が発表できなかったのは残念だ。メディアは極端な意見しか取り上げず、大多数の歴史家の考えは紹介されにくい。
 今回は極端でない意見を示すことができた。そういうことを国民に知ってもらえればいい。今後も専門家の間で淡々と議論を積み重ね、共同研究を続けていくことが望ましい。
 
◆相互理解の環境整備を
 <解説>日中両国の歴史認識の溝は埋まらなかった。三十一日に公表された歴史共同研究の報告書は、南京大虐殺の犠牲者数などの争点で従来の見解をぶつけ合うだけに終わった。
 
 共同研究は二〇〇六年、小泉純一郎首相の靖国参拝で悪化した日中関係の打開を図る安倍政権の提案でスタート。「冷静な研究を通じて学術的に歴史の事実を明らかにし、歴史問題をめぐる対立感情を和らげる」(報告書の序文)ことが目的だった。
 だが、研究者同士とはいえ、共産党の一党独裁体制を維持する中国と、学問の自由が保障されている日本が、同じ土俵で議論するのは無理な話だった。
 
 中国側は一時、戦後史以外の論文公表も拒んだ。最終会合を二度にわたって延期させたのも、北京五輪などを前に、歴史問題で国民を刺激するのを恐れたためとみられている。
 
 両国の見解が一つの報告書にまとめられたのは「画期的」(外務省幹部)かもしれない。ただ、中国側の要請で討議記録が明らかにされなかったため、研究の成果がどのように各論文に反映されたのか分からず、言いっ放しの感は否めない。
 
 両国は共同研究を継続する方針を確認している。政治体制の違いに翻弄(ほんろう)される愚を繰り返さないためには、もっと純粋な研究環境を整える必要がある。

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