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すさまじき形相のまま大統領へ罵声あびせる韓国の父兄ら (04月18日)(金)

 晴れ曇り 6時45分ー7時15分 散策 8時 トーヨー 8時20分 区へ 打ち合わせ 10−18度C 11時 案件があって吉中氏と要談 13時 邑上氏 里井氏と案件があって要談 19時 2014えどがわボランテイアフェスタ実行委員会全体会(GP)
 

●私が三島由紀夫に初めて会ったのは1966年だった。皇居の馬場先門にあった日本外国特派員協会で、三島が講演することになっていた。当時の私は英紙『フィナンシャル・タイムズ』の東京支局長だったが、経済担当だったため、三島にはあまり関心はなかった。
 
 2年後、英紙『タイムズ』の東京支局長として三島を取材した。当時の三島は、昭和天皇を除けば世界で最も著名な日本人だった。本音で語る三島は、とても興味深かった。だからテーマを決めずに会うことにした。三島との長い付き合いは、ここから始まる。
 
 68年は、米国がベトナムに負けた年だった。第2次世界大戦が終わって10年余りで、超大国の圧倒的なパワーに陰りが見え始めたのだ。三島は世界が逆転しつつあることを感じていた。彼は英貴族ジョージ・ゴードン・バイロンについて語った。バイロンは私兵を集めてトルコと闘い、ギリシャを独立させた英雄だ。三島はバイロンのように、日本を独立させたかったのだろう。その思いはやがて「楯の会」結成に繋がっていく。
 
 三島が「楯の会」を結成したのは、68年秋だった。公になったのは翌69年で、その春、私は富士山麓での訓練を取材した。3月17日付の『タイムズ』に私の署名原稿が掲載された。
 「楯の会」は多くの学生を擁する左翼団体に比べて、数の上では少なかったが、知性と士気の高さでは目を見張るものがあった。私の記事は、東京・市ケ谷の自衛隊駐屯地で起こる事件を予見していたようでもある。
 
 三島は70年11月25日、市ケ谷駐屯地で割腹自殺を遂げた。世間に衝撃を与えた死は、以前から準備されていたと私は思っている。最後の長編小説『豊醸の海』が、その壮大なストーリーのシナリオだった。第1巻の『春の雪』で自衛隊での訓練を開始し、第2巻『奔馬』で「楯の会」を結成。第3巻『暁の寺』で5人の仲間を選び、第4巻『天人五衰』を書き終えたのは決起当日だった。
 
 自らの死をもって、三島が世間に何を問おうとしたのか。それを理解することは難しい。
 三島にとって、敗戦自体はさほど重要ではなかった。彼にとって重要なことは「日本の心」「日本人の誇り」をなくしてしまうことだった。三島は日本の政治家には関心を持たなかった。命を捨てる覚悟のない政治家なんぞ、何もできないと斬り捨てていた。
 
 三島は、日本こそ他国にない固有の歴史、文化、伝統を有する唯一の国と信じていた。これらは稀有(けう)のものであり、外国の侵奪から護(まも)らなければならない。三島にとって「国を護る」とはそういうことだった。そのために命を賭して、「国体」を護ろうとしたのだ。
 
 市ケ谷駐屯地での自決は、それを行動で示したものだ。命より大事なものを護らなければいけないという真実の意味を、文章が巧みな三島でさえ、文字で表現しきれなかった。あるいは、あのような死に方を選んだがゆえ、三島の表現は完成されたといえるのではないか。
 
 三島を理解するには2、300年必要だろう。それほど彼が日本人に残したメッセージは奥が深い。 (構成・安積明子)
 以上 ヘンリー・S・ストークスの記事。 1938年、英国生まれ。62年に英紙『フィナンシャル・タイムズ』入社。64年、東京支局初代支局長に着任する。以後、英紙『タイムズ』や、米紙『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長を歴任。著書に「英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社新書)、共著に「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」(同)など。

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